おちつけ、わたし
最近、再販されて、気になってちょいちょいサイトを覗いていた「おちつけ」goods。
「おちつけ。本当に必要か!?」と問いかけてみたら、そうではなかったから見送ったら、あっという間に売り切れ、(笑)
そしてやっぱり気になるのでした。
ほぼ日乗組員(社員の皆さん)の対談を拝読すると、わたしは誰かと比較して集団の平均をとるなら「おちつけ」てないほうではない。
ん?なんだか回りくどいですが、落ち着いて見られるほうですし、落ち着いているほうかもしれないです。
でも、あくまで、個として自身と対話してみると、「おちつけ」という自身への声かけでのワンクッションの効果を感じるんですよね。
深呼吸をして、
スっと素に戻る=ゼロに戻る意識
の差がやっぱりある。
この本の一部なのですが、本当の幸せを生きるには、心がストレスを感じて弱り不安定で動揺していると、「幸福の拡大」からそれた動きをしてしまう……と記されています。
落ち着きたいから、やけ食いに走る
というタイトルもそれ。
手っ取り早く満たされたくなる。
心を落ち着かせたくなる。
それは本当に欲しいものや事柄から逆の、代償行為に足元をすくわれないようにね、と。
その「おちつけ」てない行為ならやってる、(苦笑)
蓮村先生は、代償ではなく「自然の知性」に従う方法を綴っておられるわけです。
わたしなら
本当はどうしたいかな、と思うと浮かぶのは、
瞑想的時間をとり、
じぶんやじぶんの対話したい対象と時間をとれていないことが、いつの間にかストレスになり、
「何か忘れている/しそこなっている」感覚になっているように感じます。
なにかを羨んでいるくらいなら、
「じぶんの本音と一体となって行動してごらんよ」
と、わたしに言いたくなる。
代償で埋めない。
おちつけ。
当面、たびたび思い出すコトバになりそうです。
0コメント